クリニクラウンの似顔絵

詩学調査員に退屈はない。
フリーペーパーやフライヤーを手にとってはデザインを読む。プロアマの下手くそな小説にも眼を通す。文化的経験値から言って馴染みのないヒップホップやクラシック音楽も定期的に確認する。街の駐車場の隅の崩壊しかけたアスファルトの隙間から、小規模な植物の生態圏が成立していることを見逃さない。外食で供出される料理は、今やマズいものを探す方が難しいのだから、安かろうが高かろうが味覚と嗅覚を大いに使い、スプーンの先で感じる固さ柔らかさにも意識を注ぐ。

退屈はない。
そして子供が描く似顔絵は退屈とは絶対的に相容れない。
自らの手が小さく、まだ他のクラスメイトと特徴の差異が生じていなかった頃、幼稚園の教室でクレヨンを手に取っても描くべき線も図形も何一つ思い浮かばず、発想ではなく絵を描く必要性を求めていたのについに得られず、ついにお絵かきの時間に白紙を提出するほかはなかった詩学調査員は、長いこと眼にしていなかった、子供の手になる似顔絵をインターネット上で見つけるとき、なぜこれほどまでに闊達に、何の悩みもなく線を描けたのか、と、20年前とまったく同じことを思う。
オレンジの、赤の、黒の、緑の線、それは、20年前の自分がついに紙の上に引けなかったものだ。

(本記事の画像は全てNHKの記事から引用する)

難病のめいちゃんが届けたかった似顔絵
2020年5月30日 6時47分

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200530/k10012451231000.html

小児病棟で子供達と触れ合うクリニクラウン・ホスピタルクラウンは、名優ロビン・ウィリアムズ主演の映画『パッチ・アダムス』や、貧困層のコメディアンの絶望と暴発を描いて世界の度肝を抜いた『ジョーカー』でも描かれていたが、日本国においてどれほどの知名度があるのか、詩学調査員は把握していない。

NHKに掲載されたニュース記事には、「新型コロナウイルス」のタグがついている。
難病「左心底形成症候群」を抱えていた5歳のめいちゃんは、今年3月に亡くなった。
生まれてからのほとんどの時間を病院で過ごしていた彼女にとって、「外部」とは何だったのだろう。彼女が病院の外をどれほど知っていたのか、記事からはわからない。
だが彼女には、民俗学で言う「異人」がいた。
ときどきどこかからやってくるクリニクラウンは、一緒に遊び、楽器を演奏してくれる、決定的な「外部」であったに違いない。

クリニクラウンのことが大好きで、実際に会った時にはうれしくて固まってしまうほどでした。

我々は、嬉しさのあまり己の体が動かなくなるという反応があることを知っている。
また、無反応であることは、その人の脳の、身体の中に意味性が充溢することであるのも知っている。

これは、大人にとっての対子供、の話ではない。それはどのような関係においても起こりうる。コミュニケーションの目的とは、相手の反応を引き出すことには限定されない。相手が自分の中に生成される意味性を自覚すること、これこそが、コミュニケーションの真の第一次目標に他ならない。

これは似顔絵の裏側に書かれていた。

クリニクラウンの元に、めいちゃんの母親から、似顔絵が届けられた。
めいちゃんがクリニクラウンの「きゃしー」と「トンちゃん」を描いたものだ。
彼女は、自分で渡すと言って、手元に置いていた。
今年2月から、クリニクラウンは病院への訪問を中止していた。
だがこれを機に、動画配信や「WEB訪問」が開始された。

再び、めいちゃんの似顔絵を見てみよう。

第一に、紙全面を使って顔を描くことが試みられている。
沖縄県立南部医療センター・こども医療センターへのWEB訪問の記事の画像によく見られるように、クリニクラウンは帽子を被り、パステルカラーやストライプのTシャツを着、その上のオーバーオールには巨大なボタンが付いている。
めいちゃんがあとあと動画で彼らの姿を確認していたとしても、色彩の奔流は彼女の心を捉えたはずだ。
だが、彼女は顔だけを選んだ。
それだけ顔というものは印象に残るのだ、と言ったとしたら、この絵を大人の月並みな発想で覆ってしまうだけだろう。むしろ、めいちゃんは帽子や洋服の、絵にするには色彩の多い要素を切り捨て、顔だけを記憶のトリガーに、きゃしーとトンちゃんの姿全体をアンカーにすることで、絵を眺め返しては彼らの姿や行動を脳内に復元しようとしていたのではないか。

第二の特徴として、縦長の紙であることを意識した余白が設けられている。
きゃしーもトンちゃんも、それぞれの紙で左右の余白が同じ程度になっている。明らかに配置のバランスが意識されているのだ。
一枚の紙に二人を入れるのではなく、一枚の紙に一人を、中央に配置しなければ気が済まなかったことだろう。彼女にとっては何としてでも、紙の領域の全体が、きゃしーとトンちゃんである必要性があったのだ。
思えば、あたかも鏡のようだ。
鏡が自分の顔を矩形の中央に写し出すものであるのなら、めいちゃんは鏡に代表される長方形という領土そのものを、顔を記録するフォーマットとして認識し利用していたとも考えられる。

今、クレヨンを持つとする。
似顔絵の線をめいちゃんと同じ手つきでたどるならば、思い出を持つ当事者として記憶を手繰るのに充分な情報量が定着されていることに気づくだろう。
仮にこの紙がA4サイズだとすると、例えばトンちゃんの正面右側のメガネのレンズは約12.5cm、A5だったとしても約7.5cmとなり、5歳児の手で描くには、一思いに、大胆に、手首だけでなく腕全体を動かさねばならない。
この、自分の中に沸き起こる判断、そしてその中途の、クレヨンの先が紙の上を滑る感触、コントロールの効く/効かないがせめぎ合うその感触と、短いようで長かったはずの時間を、彼女は実によく憶えていたに違いない。

記事の冒頭、クラウンと一人の小児の写真が掲載されている。
文脈から判断し、この子がめいちゃんだろう。
その手は開かれている。
ところで、日本クリニクラウン協会のどの写真を見ても、クラウンたちの手は開かれている。
無論、心理学的見地から言って、開かれた手はその人物が心理的にオープンであることを示し、それは相手へも即座に伝達される。また、拳は武器そのものであるが、開いた手は相手とつなぐことができる。
もし、クラウンや看護師たちの手を見て、子供達も手を開く動作をすれば、子供達のミラーニューロンが発火し、心理的連帯感は非常に強くなったということがわかる。
線や文字の書き方からして、めいちゃんは右利きだろうが、この写真の開かれた左手が、きゃしーとトンちゃんとの連帯の証でなくして、何だというのか。

もしもめいちゃんの横に、5歳の私が居たのなら、気前よくクレヨンを手に取ったに違いないのだ、必要性も、計画性も気にせず、線の大きさも、思い通りにならない手のブレさえも構わず。
そこに幼い私が描くものは、先生の顔かもしれず、クリニクラウンの顔かもしれず、めいちゃんの顔であるかもしれない。

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