サラ・ヴォーンの歌声を大人になって聴いたら

ある日、いつものようにSpotifyで音楽をかけていたら、利用者の好みに合わせて勝手に選曲してくれる機能により、中学生の時以来、耳にしていなかった歌声が聞こえてきた。
サラ・ヴォーンの「ラヴァーズ・コンチェルト」だ。
学級崩壊真っ盛りのクラスにあって、周囲との相性が極端に悪かった10代前半の詩学調査員には、あまり、その当時の記憶にいい思い出は無い。だからこの曲についても同様で、どんな教育的効果があるのかもわからない音楽の授業で、CDを聴き、この黒人歌手の「ウォウウォウ」に爆笑が起き、クラスで一番陽気な卑劣漢がそのモノマネをする、そんな思い出ばかりがあって、ひとつの音楽を虚心に聴くことは妨げられる。
もう、10年以上経っている。それまで、「サラ・ヴォーン」とはあの退屈極まりない教科書にイタリック体で記されたカタカナの名前であり(この歌い方はどうせアメリカ人に決まっている、と幼い頭で考えたものだ)、「ラヴァーズ・コンチェルト」という題名はすぐに思い出せる知識としてあったが、自分に必要なメロディであるとは思っていなかった。
だが、今になってその条件反射的感情を黒い布を注意深く取り去って見ると、「ラヴァーズ・コンチェルト」という曲そのものは、その頃の私にとって、不可避な他者との断絶を肯定するような外的な力として鼓膜に響いていた、そんな記憶も甦った。

大人になって聴いた、この歌声。
この歌声は、記憶にある黒人女性特有の声質とまったく同じでありながら、歌唱上のアクセントも、そこから受ける印象も、まったく違っていた。
この録音は、冒頭13秒、ピアノを背景にヴァイオリンが前奏される。ひとつの音楽に「始まり」を与えるものとして相応しく、つい親しみを持ってしまうタイプのものだ。そこにドラムが入り、エコーのかかったサラの歌唱が始まる。
伸びやかで、トゲがない。そして、発話される単語が明晰に聴き取れるせいか、言語的意味が強く脳に響く歌だ。気がつけば、あの、「with their melody」の直後に入れ込まれる「wow wow wow」は意識に上らず、「See there beyond the hill」から新たに起こるドラマティックな質感の起伏でいっぱいになる。
まったく、まったく違う体験ではないか。
私はついていた。26歳で再会していなければ、この曲は監獄のような日々の中の、貧相な音楽の思い出としてあり続けていたところだった。

この歌声には——いやそれだけではない、このメロディそのものに、「喜びの確かさ」と呼ぶべきものを確保し、保存して、聴く者に提供する、そのような機能がある。
「喜びの確かさ」。それは、私がこの音楽を言葉にしようとした途端、私の脳が形成した一文だ。概念としての定義は、はっきりしている。ひとりの人間が、束の間のことでもよい、抱いた喜びがあるとしたら、それは何かしら虚構に属するもの、すぐに蒸発するもの、やはりそんなものは無かったのだと思わされるようなもの、そのようなものではなく、たとえ他者と共有できずとも確かに在るものであり、疑うまでもなくひとつの実在であるのだ、と、なんの躊躇もなく、面と向かって断固として保証する、そのような機能によって生まれる”確かさ”のことだ。
ある種の音楽には、「喜びの確かさ」が芯として宿されている。言語情報(意味情報)がそれを語るのではない。音楽が、人のコントロール下で造形された音楽が、それを語る。歌ではなく、歌声がそれを語る。言わば、音楽による記述、ひとつの概念を音の組み合わせによって記述するということだ。
そして「喜びの確かさ」は、一度機能させ、一度経験すればそれで終わり、というものではない。
人は、「喜びの確かさ」をすぐに忘れる。いつ思い出しても喜びを与えてくれる記憶はあっても、喜びの確かさそのものはすぐに忘れる。だからそれは、何度でも私たちの眼の前で”上演”されねばならないものだ。
だからこそ、サラ・ヴォーンは、このように歌ったのではないか。疑問の余地など寸分もなく、確かさを語る、この歌い方。

私は手元を見た——私は勘違いしていた。「ラヴァーズ・コンチェルト」は「Lovers’ Concerto」だと思っていた。てっきり、「恋人たち」のことを想像していた。そうじゃない。「A Lover’s Concerto」だ。
よく聴けば、この歌詞は「I」から「you」へ宛てた文章ではないか。
そうか。このメロディは、どうも、「すべてが円満に終わった」というハッピーエンドの瞬間の旋律ではない。確定はしていない、しかし絶対に確信している、「愛を感じられない孤独な夜にもあなたは私を悲しませたりしない」、この確信の強さ——。
それが、原曲から生まれたものであったとしたら。
無論、歌詞よりも音楽の方が先にあった。
この曲は、もともと、バッハの作として伝えられていた3/4拍子の小品、それも現在はバッハと同時代のオルガニストであるクリスティアン・ぺツォールトの作と考えられている曲を、アメリカのソングライターがポップソングに改めて1965年にガール・グループのザ・トイズが歌ってヒットし、スタンダードとなった。
65年に歌詞を付けたその時、ザ・トイズのプロデューサーであり作詞・作曲(編曲)を手がけたサンディ・リンザーとデニー・ランデルは、原曲の微妙に揺らぐ高揚感と共振しようとしたのではないか。実は原曲であるメヌエットは、聴けばその底抜けの明るさを心地よく感じはするもののそれほど劇的ではなく、私のような素人の持っている「バロック音楽」のイメージに沿う、実に17・18世紀風の音楽だ。これをポップソングにするため4/4拍子に書き換えられた時、当然、オリジナルにはない間が出来る。これが決定的な転換を一曲に与える。この情感の変化を、二人は発見したのでは。そしてそこに、サラ・ヴォーンの歌が加わるならば! これは、ひとつの作品が経験する進歩として、見事なものと言う他ない。

聴き終わると、思い出すのは、日本語芸術において革新的な業績を上げた詩人である西脇順三郎の「ヴィーナス祭の前晩」だ。地中海的イメージにあふれたこの詩は、アメリカの風土から生まれたサラの歌声とピタリと重なるわけでは無い。だが、太陽光の差す詩内空間は、まだ英語の歌詞がわからなかった幼い自分がメロディの印象から脳裏に描いた光景の明るさとは一致している。
そして今ならば、このシンプルな歌詞が尚更それを強化する。

 明日は未だ愛さなかつた人達をしても愛を知らしめよ、愛したものも明日には愛せよ。新しい春、歌の春、春は再生の世界。春は恋人が結び、小鳥も結ぶ。森は結婚の雨に髪を解く。
 明日は恋なきものに恋あれ、明日は恋あるものにも恋あれ。(「ヴィーナス祭の前晩」)

 あなたは私を抱きしめて
 愛しているよと言ってくれるでしょう
 あなたの愛が真実なら
 あらゆることが
 ただただ素晴らしい(「A Lover’s Concerto」)

この明るさは、詩学調査員が久しく忘れていたものだ。
うっかりしていたからなのか、世の中にはこの明るさを上演する作品が少ないからなのか、どちらなのかは分からないが。