「後ろ向きに前へ進め」と歌う千年前の詩集『ルバイヤート』

もともと無理やりつれ出された世界なんだ、
生きてなやみのほか得るところ何があったか?
今は、何のために来り住みそして去るのやら
わかりもしないで、しぶしぶ世を去るのだ!

自己啓発本は、あらゆる方法でポジティヴシンキングを勧める。そのうちのどれかは、確かに効くのだろう。
だが、がむしゃらに突き進もうとする者は、押し戻される経験も余儀無くされる。
ポジティブシンキングが対応できない事態や瞬間に対して、何が有効となるのだろう。
ここにひとつ、多くの人が忘れてしまった、人類が継承すべき思考法がある。
それは名付けるなら、「後ろ向きのポジティヴィティ」ーー徹底した無力感が、快い笑いとともに、強力な自己肯定を生み出す。
……そんなことが可能なのかって?
可能にした男がいるのだ。1000年前のペルシャから脈々と現代まで受け継がれた詩を読まずに、文学を放り投げることはできない。

もともと無理やりつれ出された世界なんだ、
生きてなやみのほか得るところ何があったか?
今は、何のために来り住みそして去るのやら
わかりもしないで、しぶしぶ世を去るのだ!

なんと。この世は自分の意思とは関係なく、無理矢理に連れ出された場所であって、命あるうちは悩みばかり得て、最後にはしぶしぶ「風のごとく」退場することになるのだ、と詩人は歌う。
ウマル・ハイヤーム(もしくはオマル・ハイヤーム)は、西暦1040年ごろにペルシャに生まれ、1123年に没したと伝えられる人物だが、生前に名を上げたのは詩人としてではなく、数学者、天文学者としてで、哲学・医学・言語学にも通じる、いわゆる「万能の天才」だった。レオナルド・ダ・ヴィンチの名前が引き合いに出される理由はここにある。
だが、そのあたりの事情や、当時のペルシャの王制、彼がその中でどのように活動していたかは、詩学調査員が報告することではない。
彼の詩をさらに読んで行こう。

思いどおりになったなら来はしなかった。
思いどおりになるものなら誰が行くものか?
この荒屋に来ず、行かず、住まずだったら、
ああ、それこそどんなによかったろうか?

魂よ、謎を解くことはお前には出来ない。
さかしい知者の立場になることは出来ない。
せめては酒と盃でこの世に楽土をひらこう。
あの世でお前が楽土に行けるときまってはいない。

見事なまでに徹底した厭世観だ。
生まれたことが何かの間違いだった。この宇宙のバグとして自分がここにいる。仕方がないから、酒を飲んでこの世をマシにしよう。詩人は、この思想を延々と書いている。

地の青馬にうち跨っている酔漢を見たか?
邪宗も、イスラムも、まして信仰や戒律どころか、
神も、真理も、世の中も眼中にないありさま、
二つの世にかけてこれ以上の勇者があったか?

だが、『ルバイヤート 』を読んで悲観に沈む読者はいない。もしもハイヤームが、この世界への恨みつらみだけを垂れ流していた詩人だったとしたら、詩集はこの1000年の間に消滅していただろう。
言語芸術の淘汰原則として、シンプルな「諦め」の表現は、生き残らない。諦めの言葉というものを、不思議と(いや、不思議でもなんでもないが)、人類は許して来なかったのだ。
なぜ『ルバイヤート』が生き残り、いま現在まで伝わっているのか、ハイヤームの言葉が開く空間に身を置くと、それがわかってくる。
今、目の前に、馬にまたがる男がいる。明らかに酔っている。宗教も神も信じていない。世の中、というものさえ忘れている。彼は何を楽しんでいるのだろう? 私たちが彼であったら、何を楽しんでいるのだろう? 「なにか嫌なことがあった気がするが、忘れちまった」「とりあえず、クソ喰らえなんだ、とりあえず、何もかもが」そう叫ぶことができたら、人は少しだけ自由になれる。
己の存在そのものが結局は無価値なのだ、と言葉の上では言いながら、その実、現在という時間を生きる生命は至上の価値があると肯定し続ける。それがハイヤームの戦略だった。

あしたのことは誰にだってわからない、
あしたのことを考えるのは憂鬱なだけ。
気がたしかならこの一瞬を無駄にするな、
二度とかえらぬ命、だがもうのこりは少い。

命のはかなさを語る言説は、この世にいくらでもある。それはあらゆる表現分野の定番であり、定型でもある。
だが、命のはかなさを語ることは、反動的に、逆説的に、命の尊さを語ることを意味するのだ。ハイヤームは、それをよく知っていた。
『ルバイヤート』は、実は日本文学史にもこっそり出てくる。小説家・太宰治の名刺がわりの一冊『人間失格』に登場するのだ。さらに付け加えると『ルバイヤート』は、太宰の最期の時、机に並んでいた『聊斎志異』『上田敏詩集』『クレーヴの奥方』といった愛読書のうちのひとつなのだ。
もしも太宰がこの詩集をアルコール依存症の言い訳にしていたのだとしたら、やはり尻を蹴り飛ばすべき男だと思うが(詩学調査員は世間がする程度に太宰を褒めることはしない)、幸い、そのような記録はまだ読んでいない。
太宰の愛読書であったというのは、ハイヤームの飲酒礼賛を置いておいても、わかる話ではある。ハイヤームがたった一つの思想を核としていくつもの四行詩を書き残せたのは、思い出したくない過去と、未来への憂鬱に悩んだ時期があり、それを昇華しようとする強い意志があったからだ。そこに、太宰は強いシンパシーを感じていたことだろう。

折しも、2019年5月28日の日本は、朝、引きこもりだった1人の男が包丁を持って川崎の小学生たちに襲いかかったニュースに感電した。男は抑圧的な家庭環境で育ち、学校では苛烈ないじめに苦しめられ、ネットの論では「失うものが自分には何もないと気づいた’無敵の人’による犯行だ」とも言われた。
だが、「後ろ向きのポジティヴィティ」を説く『ルバイヤート 』は「無敵の人」を作り出すars(術)ではない。また、オウム真理教・チベット密教的「空」につながってもいない。
『ルバイヤート』の本質は、ただの無力感の開き直りではい。無価値を認識した先の横暴でもない。
1000年前の天才が詩で伝えようとしたのは、「前へ進め」ではなく、「諦めろ」でもなく、「後ろ向きに前へ進め」という、少しアクロバティックな肯定だった。この思考に勇気が発火する人は、決して少なくはないはずだ。

なお、岩波文庫と同じ小川亮作訳が、そのまま青空文庫に入っている。
https://www.aozora.gr.jp/cards/000288/files/1760_23850.html