「ゼロの立場」とは何か

 

 彗星読書倶楽部が提案する、文学作品の読み方があります。
 それが、「ゼロの立場」です。

 

彗星読書倶楽部は、読書や人文学の玄人ではなく、予備知識なんて持ってないよ、という人や、実はちょっとかじったことがある、という人を対象に作っています。
しかし、歴史的に重要な文学作品は、それ相応の予備知識がなければ読めないのではないか、と心配する方もいらっしゃるでしょう。
私もよく、
「ヨーロッパ文学って、ギリシャ神話を知らないと理解できないんじゃないの?」
と言われることがあります。
そうした心配をする人に限って、「でも本当は読んでみたいんだけどな」、と思っているものです。

そこで私が提案するのが、「ゼロの立場」を取ることです。

 簡単に言えば、今の自分の頭の中にある知識や常識で作品を判断するのではなく、どの作品にも平等に接してみる、それによって見えてくるものを収穫とする、という読書法です。
「ゼロ」ですから、頭の中がリセットされた状態で、自分で一行目から読み、自分の足でページという現場を歩き、時にストレートで時に揺らぎやすい言葉の意味を積み上げていきます。
 読み終わるころには、ひとつの作品とは、言ってみれば「意味の建築物」なのだ、ということが実感できるという次第です。

上の説明で納得された人は、もうここから下の文章は読まず、近くにある本を手にとって読み始めるべきです。
ここからは、この「ゼロの立場」について、考えを深めてみましょう。


「予備知識が無い」、と言う人も含め、実は人間は例外なく、何らかの予備知識を持っています。
ギリシャ神話なんか知らない、と考える人でも、ギリシャ神話なんて自分には関係ないけど色んな人が言及している、という決定的な予備知識を持っていると言えるのです。
人は、普段生活しているだけで、物事に対する膨大な予備知識を蓄えています。
 脳の中にあるこのナマモノのデータベースは、自分の周りの環境や文化に左右され、どんどん偏見を生み出していきます。
ニーチェが書いた哲学書は有名だけど、ごく一部の専門家にしか結局わからないんだろう、とか。
どんな偉いセンセイでも、自ら警戒していないと、この脳内の罠に引っかかります。

(実際私も、「あ、この人、印象でしか理解できてないな、定説に引きずられてるな」という大家をどれほど見てきたことか……!!)

そこで、目の前の本を読む前に、その本に対して持っている印象を、頭の中で一時的にゼロにし、ただ単純に目の前の文章をゆっくり読む。
これが「ゼロの立場」です。実に簡単でしょう。
「いや、偏見はそんな簡単に消せるものじゃない」と言うひともいるかもしれません。
でも恐らく、その人の頭の中にあるのは、男性から女性への偏見とか、異性愛者から同性愛者への偏見といったものでしょう。
まだ読んだことのない書物に対する偏見は、自分で読んで確かめれば、覆すことが出来ます。
ただ単に、読み始めればいいのです
ほかにも、ページに書かれた文字の情報を取りこぼす心配があるのではないか、と考える人もいるはずです。
もちろん、それはあるでしょう。しかし、読み進める愉しみに比べれば、それは大した問題ではありません。どうしても気になるようなら、意味のわからない箇所にマークを付けておいて、読み終わってからゆっくり調べれば済むことですから。


 

しかし、どうしてこうも、人間の頭の中からは、こうもたくさんの偏見がポンポン生まれ出てくるのでしょうか?

人間は、目の前にあるものを認識するときに、自ら、必ず一定の制限を加えた状態で認識しています。
その理由として、ひとつ、次のような仮説を立ててみましょう。
ひとつの出来事にはほかに無数の出来事が関わっている、ということに、人間は無意識に気づいている。
この事実を前に、自分ひとりで関係の全てに関わることはできない、自分の時間を枝葉末節なことに費やしてはいけない、と、頭が勝手に制限をかけるのだと思われます。
例えば、私は今、三ツ矢サイダーを飲んでいますが、別に何か特別なことを考えて飲んでいるわけではありません。
でも、連想を働かせようとすると、
・注いだグラスはフランス製で、たしか舞浜のイクスピアリで購入したものだけど、フランスから舞浜にたどり着くまでにどんな人が関わってどんな経路を辿ったんだろう、
・三ツ矢サイダーはアサヒから販売されているけどそういえば友達にアサヒに就職した人がいたな、
・アサヒの社員は次の期間限定フレーバーの開発に勤しんでいるだろう、どんなプロセスを経て商品化されるんだろう、
・そういえば昭和初期の三ツ矢サイダーって今とレシピが違ったんだよな、それを再現した復刻版を飲んだとき現在のものとは味が確かに少し違っててむしろ昔のヴァージョンの方が好きだと思った、
……と、連想はいくらでも出てくるし、続けることが出来るのです。
こんなに沢山のことをいちいち考えていたら、普通は時間の無駄です。だからなるべく考えないよう、脳は脳自身に対し、司令を出している。
しかし、どうしても手っ取り早く、目の前の物事を説明したくなることがある。
 その時、事実とは関係なく、自分の頭の中にある材料だけで理由を作り上げる。
 これが「偏見」と呼ばれるものではないのか……これが、「ゼロの立場」を考える上で私が考えるひとつの仮説です。
 
「文学」、と呼ばれるものに対する偏見は、本当に、根強くはびこっています。
中島敦は漢学者の家系に生まれたから、漢文調の読みにくい文章で教訓めいた小説ばかり書いていたのだろう、とか。
フロイトの論文はもう誰も信用していないのだろう、いまさら読む価値は無いだろう、とか。
「ゼロの立場」に立てば、というより、実際に本を開いてみれば、そんなことは全然ない、ということがすぐにわかるのです。

これは同時に、このプロジェクトに関わる時の管理人自身が取る立場でもあります。
文学や芸術の理論を学び、今も研究している管理人は、歴史の中で醸成されてきた様々なテクニックを使って本を語り、「読みの現場」から収穫を引き出すことができますが、それは、平等に読むということとは(すべての場合ではありませんが)反しますし、そんなことばかりしていたら、知への入口を作ることはできません。
なので、彗星読書倶楽部の文章を書くときや、読書会では、「ゼロの立場」から読み、書き、語ることにしているのです。
(2018/5/16)