小説を味方につける

小説を味方につけたいなら、内容は二の次だ。


小学生や中学生の頃、読書感想文を書かされたとき、「自由に読んで、考えたことを素直に書こうね」なんて教わった経験はありませんか?
そんなこと憶えてないわ、という人でも、小説を、特に何の指針も目的も持たずに読んでいる人は多いでしょう。
そういう人に限って、
「難しかった」
「よくわからなかった」
と、小学生でも言えそうな感想しか口にできません。
「小説は面白くてなんぼ。退屈なものなんか読む必要は無い。」
「ただ表現の美しさに酔えばいい」
と得意気に語る人もいるでしょうが、それでは「小説を味方につける」ことにはなりません。

そこで今回は、<自由に読む>という前提は封印し、読んだら確実に何らかの経験が残る読み方を伝授します。
方法はいくつもあるので、ここではひとつだけを詳しく解説します。

表現を読む


まず、映画を思い浮かべてください。なんでも結構。
ひとつの映画は、いくつものショットから成り立っています。
では問題。
ひとつひとつのショットは、1本の映画を構成するパーツに過ぎないのか?
良質な映画であれば、正解は、否。
ショットは、人物やモノや場所を意識的に配置し、色彩を操ってようやく作られるものです。
観客に登場人物の人間関係を、また場所の様子や意味を、言語を使わずに一瞬で理解させるために、映画の造り手は頭を悩ませます。
だから、映画って贅沢ですよね。そんなショットが、いくつもいくつも続いて、90分とか2時間になるわけですから。

小説で同じように考えてみましょう。
ひとつのショットに当たるのは、1文と言えるでしょう。
読者の意識は、その1文から、次の1文へと橋渡しされます。
これがいくつも続いて、1本の小説になっています。
1文、数行、1段落、1章、1篇、1冊。
すべてのレベルで、表現がなされています。
そこで、表現を読み取ることだけに集中して、読んでみてください。

表現を読むことが、なぜ「人文学を味方につける」ことになるのでしょう?
答えはシンプル。
<まだほとんどの人が過去言い表せていなかったものごとを、その表現(作品)が言い表しているのを目撃できるから>です。
換言すれば、読者は、作品が前例のない言い方で何かを読者へと伝えようとしている現場に立ち会っているのです。
重要なことは、「知識が増える」ことではなく、「現場に立ち会っている」ことです。
小説に出てくるのが、日常では使わないような表現であったとしても、あなたがそれを使う必要なんかありません。
しかし、「今までと違う、自分が知っているのとは違う伝達方法がある」ことを知るのは、
――あの人が言ってた「情報を脳ミソへ送り込む」っていう言い回し、ずいぶん説得力があったな、自分も今度使ってみよう……
――今まで感じていたこの感情、「カリギュラ効果」っていう名前がついてるのか!
と、表現に敏感になることでもあります。
読書で経験値を積めば、自分自身の表現力も向上するわけです。

表現の受容力→表現の発信力

これを頭に入れて読んでみると、「何が書いてあったかわからない」なんてことになる心配はありません。
(一応書いときますが、どんな仕事をしている人でも、表現力は一朝一夕では伸びません。今日始められるかどうかが表現力を左右します。)

小説を味方につけたいなら、古典的作品を読もう。


「じゃあ、何読めばいいの?」
とお思いでしょう。
ここは言い切ります。
「名作」「古典」と言われている小説です。
つまり、数十年、数百年という時間の流れを経ても、人々に忘れられずに今も読める作品です。
小説ならなんでも読めばいい、ってわけじゃありません。
わたしたちが西暦何年に生きていようが、表現そのものに注目する価値がある小説は、ほんの一握りです。
それを見極めるプロは、もちろんいます。
でも、慣れていないと、ハズレを引く確率は極めて高い。
だから、すでにある程度の評価がなされてきた作品を読むのが、アタリに出会うための正しい判断となります。
単語。一節。人や場所の描写。舞台となる時代への言及。セリフ。
あらゆるレベルでの表現のされかたを読み取りましょう。

一度読んでも、理解できないかも知れません。
でも、ちょっとやそっとでは他人に伝えられないことを伝えようとして生まれた小説なのですから、すぐ分からないのは当然です。
まずは最後まで読み切って、もう一度読み返してみればいいんです。

それでも小説はムダ? ならば……


もし、それでも「小説なんか何の役にも立たん、便所紙にでも使え」と言う人がいれば、その人には最初から小説はおろか、他人が「表現」をすることも「芸術」も、必要なかったのです。
読む必要のない人が、わざわざムリして読むことなどありますまい。