世界文学とは何か?

世界文学、という単語があります。
近頃、日本の文芸書界隈でもよく見かけますが、これは文学におけるひとつの専門用語として使われている言葉です。

しかしながら、この言葉は色々な意味で使われています。
「世界的(その実、先進国への、という意味)な影響を与えた・与え続けている作品」
という文脈で語られることもあれば、単に
「世界の文学(=非先進国の、とりわけ今までスポットライトの当たらなかった地域の)」
というくらいの意味でだけ使われることも。

実は、文学の専門家の間でも、「世界文学」という言葉の定義は定まっていません。
もちろん、人文学においては、絶対の定義というものはあり得ない場合が多いのですが、世界文学とは、いまだに激論が交わされ続けているトピックなのです。

私としては、「世界の文学」=今日の海外文学、という見方に制限されない言葉として捉えたいのですが、それは後ほど語ることにしましょう。

今回は、この「世界文学」という言葉=考え方=見方が、

・いかにして誕生したのか
・どんな定義が提唱されているか
・何が問題なのか
・なぜ重要なのか=私たちはどのように「世界文学」を捉え、使えばいいのか

これをわかりやすく説明します。

参考にすべき本:どこから手をつけるべきか

「世界文学」という単語をタイトルに冠した本は、2020年現在、ようやく増えてきました。
しかし、定義問題について踏み込んだ記述を含む本は、まだ多くありません。
議論の核心を射程に捉えている本は、一般向けの本というより、専門書として出版されています。

日本語で読める本の中で、最も包括的に、しかも読み手に対してバランスよく情報を提供してくれているのは、ロシア文学者としても翻訳家としても世界的トップランナーである沼野充義の、論文&エッセイ集<徹夜の塊>シリーズ第3巻『世界文学論』です。
その中でも、「世界(文学)とは何か?ーー理念、現実、実践、倫理」という文章が、とても簡潔に、世界文学の現状をまとめてくれているので、必要な時は、その記述をベースに書いていきます。

1:「世界文学」はいつ頃から語られ始めた?

沼野によると、「世界文学」=world literatureなる語が欧米の文学研究のフィールドに突然浮上してきたのは、1990年代〜2000年代。
それまで、「世界の文学を広く読む」、という文脈で一般的に使われることはあっても、特定の研究方法として語られることはなかったようです。
この浮上のタイミングも、何やら大きな意味がありそうですが、今回は置いておくことにしましょう。

日本においては、私の記憶に限った話ですが、2010年前後から、書店で販促のために使われるようになったという実感があります。
(この頃、私は高校生なので、本当はもっと前から使っていた人がいた可能性もありますが、小学生の頃から書店通いをしていた私は、それ以前は見たことがない。紀伊国屋新宿本店が「世界文学」の単語を冠したフェアをこの頃やっていたように思います。)

2:「世界文学」の語源は?

「世界文学」=world literature=Weltliteraturという単語が文学史上に登場したタイミングははっきり記録されています。
ドイツの文豪ゲーテの発言を、彼の秘書エッカーマンが記録した『ゲーテとの対話』という名著があり、日本では岩波文庫全3巻が有名ですが(最新の翻訳は2003年の『ゲーテ全集9巻』)、この上巻で確認することができます。

1827年1月31日。
食事中、ゲーテは「支那(翻訳文ママ)の小説を読んだ」と言います。
エッカーマン:それならきっと、とても変わっているでしょうね
ゲーテ:思ったほど、そんなに変わってはいない。人間の考え方やふるまい方や感じ方は、われわれとほとんど変わらないから、すぐにもう自分も彼らと同じ人間だということが感じられてくる。
(……)
われわれドイツ人は、(……)ともするとペダンティックなうぬぼれにおち入りがちとなるだろう。(……)国民文学というのは、今日では、あまり大して意味がない、世界文学の時代がはじまっているのだ。だから、みんながこの時代を促進させるよう努力しなければだめさ。

偏見なく文学作品を読む、というゲーテの姿勢を端的に示す発言でしょう。
(『西東詩集』をものしたゲーテですから。)
もっとも、この直後に「外国文学を尊重する際にも、特殊なものを模範にしてはいけない、模範が必要な時には、いつだって古代ギリシャにさかのぼるべきだ」という話に移るのですが、これは当時の西洋人からは削ぎ落とせない部分ですので、当然の発言と言えるでしょう。

3:世界文学、3つの定義

沼野によれば、2000年前後に発表された3つの論文・学術書(いずれも邦訳あり)が、今日の世界文学論の隆盛の基礎となったと言います。
それぞれ見ていきます。

1999年:パスカル・カザノヴァ『文芸の世界共和国』

理論的にはウォーラーステインの「世界システム論(一つの経済圏、一つの中心-周縁的力関係を持つ、広範な地域を「世界システム」と呼ぶ)」に依拠しながら、ヨーロッパは「文学資本」=言語的・文学的蓄積を有している、しかしそれ以外の地域は文学資本に欠けている、そして20世紀における文学の中心はパリなのだ、という見取り図を提示。

もちろん、あからさまなヨーロッパ中心主義が感じられてしまうものの、そもそも彼女はアジア・中東地域の文学状況を考慮せずにこれを提唱していて(邦訳『世界文学空間』参照)、ひとつの見取り図に過ぎない、としています。

冷静に見れば、文学の地勢図を世界システム論で認識する、という方法そのものは、一般理論として有効であると考えられます。
もちろん、この内容を今日に適応できるかというと、ちょっと無理があり過ぎますね。
この後ご紹介するモレッティと同じく、あえて水面に一石を投じる、挑発的論文と考えるべきです。

2000年:フランコ・モレッティ「世界文学についての仮説」(日本では『遠読』に収録)

グラフや統計を用いて文学を研究する変わり種のモレッティは、国民文学の系譜を「木」に、それが外の文化圏へ影響していく様を「波」に例えます。

その主旨は、「世界全体の文学(作品)は膨大になった。全体を把握したければ、「波」を見ることだ。そのためには、
作品を原語で精読(close reading)することではなく、
専門家の手による翻訳で読む「遠読」(distant reading)
を重ねればよい。」
というもの。

これもこれで、多くの批判が寄せられたのですが、私などは、むしろこの論文、反論を世界中からかき集めるために発表されたのではとも思えます。
批判の多くは、
「原語での精読をおろそかにしたら、悪しき英語グローバリズムが蔓延する」
というものだったようですが、
しかし、第二言語すらおぼつかない一般読者にとって、世界文学なるものは、「遠読」でしか把握できないのもまた事実。

文学研究者からの見方はさておき、傾聴に値するものでしょう。

2003年:デイヴィッド・ダムロッシュ『世界文学とは何か?』

ハーヴァード大学の文学研究のリーダー的存在であるダムロッシュ教授の、実にバランスのとれた論。
一言で言えば、世界文学とは、
精読のように作品と読者がゼロ距離に近づく=没入することは避けつつ、
遠読のように作品はそもそも遠いものとも考えず、
「自分自身の場所と時間を超えた様々な世界に、少し身を引いた立場から関わること」。
そのような見方のことである、と。

ダムロッシュ自身は、世界文学を一定のカノンの枠組みと考えることに反対しています。
世界文学とは、読みのモード、「あなたがどう読むか」であるのだ、という主張です。
また、翻訳の観点から定義するなら、
「世界文学とは、翻訳によって価値が(失われるのではなく、むしろ)増す作品のことだ」
とも。

沼野は、ダムロッシュの見解を、精読と遠読を調停するものではないか、と捉えています。
まあとは言え、ダムロッシュは何言語も使える人で、研究者としても、ひとりの読者としても、沼野と同じく世界のトップランナー。
「読書の素人がまねできることなのか?」という疑問を持たれてもしょうがないですが、
私は、これこそ「世界文学」の定義として、無難だけれど、採用すべきものと採ります。

私なりに言い方を変えると、
私たちの誰もが普段からやっている、
「自分からは遠い世界を、自分に近づけるための読書」
これを、世界規模でやってみる、それが世界文学なのだ、ということになります。

興味深いのは、上の3人の学者が、「世界文学」を作品ジャンルとしてではなく、読み方・捉え方として提唱していることですね。

4:世界文学の問題

さて、そうは言っても、世界文学には避けられない論点があります。
大きくは次の3つ。

・カノンの増加

文学の世界に、カノンという用語があります。
ジャーゴンの一種ですね。
キリスト教会用語で「正典」をcanonと言いますが、これが世俗文学にも転用され、文学史上価値が高い作品をカノンと呼ぶようになったのです。
つまり、「世界文学全集」に収録されているような、「あんな名作、こんな名作」というわけです。

単純に考えて、カノンは時間が経過するほどに増加の一途をたどります。
そりゃそうですね、「これがカノンです!」と、文学研究の世界や、一般向けブックガイドに”登録”されてしまったら、増えるばかりです。
そのうち、その全てを網羅できる人はいなくなってしまうでしょう。
(『失われた時を求めて』読むだけでどんだけ時間かかるってんだよ)

しかし、かと言って
「カノンは無くそう!」
と言って解決できるものではありません。
ある作品の影響力をなかったことにはできないからです。

カノンとどう付き合うか。
新たなカノンと言わざるを得ない傑作が誕生した時、どう扱えばいいか。
この問題は、未解決、というか、私たち読者が処理すべき問題として残っているのです。

・カノンのヨーロッパ中心主義

「カノン」なる概念を用いたら、歴史的にどう考えたって古代ギリシャ・ローマ&近代ヨーロッパ文学が中心にならざるを得ず、仕方ないとは言え、そのままでいいのか、という問題があります。
解決アプローチとしては、
「カノンの再編集・追加」が挙げられます。

ヨーロッパ以外の地域の作品からカノンを選ぶ。
これ、21世紀に入ってからよくやられている手法です。
日本では、河出書房新社から池澤夏樹個人編集『世界文学全集』が出ましたね。
(世界文学全集に日本人=石牟礼道子を入れる、という革命的操作も加え!)

「かつてのカノンを批判するのは?」
それはむしろ、カノンの価値をさらに上げることになります。批判の対象として使われることが多くなるわけですから、研究における必読文献としての地位は向上します。

・翻訳はどこまで頼りになるか?

翻訳の質をはかる基準だけでもいくつかあります。
当然、最も重要なのは、「原語版の個々の意味を必要以上に歪めていないか」というところです。
これ、外国語→日本語では、幸いにもほとんど議論が巻き起こることはありませんが(もちろん一見してダメな翻訳というのも、昭和に翻訳された哲学書なんかだと見かけますけれど)、日本語原作→外国語版だと、ときどき炎上することがあります(特に、翻訳からさらに翻訳する”重訳”で)。

でも、邦訳だって、どこまで信頼できるのかというのは、原語に対して知識がない素人には判断がつきにくいものです。
「うわ、読みにく!」という翻訳文が、実は元から読みにくい原語に忠実なだけかもしれませんが、これが「翻訳者がヘタなんだ」「翻訳者のクセが強い」と勘違いされてしまう可能性はいくらでもありますね。私も英語とフランス語以外はそのあたりの判断ができません。

だからこそ、仕方ないとは言え、「翻訳を読むことは、読者として、作品から遠くありすぎるのではないか」という意識は消え得ないのです。

5:世界文学問題への、私の回答

手短に、私の今の考えを書きますと、
「世界文学とは何か?」という問いへの答えは、

「自分からは遠い世界を、自分に近づけるための読書」であると同時に、
「新たなカノンにまつわる議論」そのものだ、というものです。

「世界文学」を単なる本のジャンルとだけ考えるには、関連する問題のスケールが大きすぎるのです。

さらにいくつか、私の今のところの主張を記しておきますと……

・カノンは消失し得ない。

少なくとも、現在認知されているカノンが、カノンとして認められなくなる状況というのは、想像ができない。想像力の系譜を辿ることは、カノンの系譜を辿ることとほとんど同じだからです。これは音楽でも映画でも同じです。

ただし、一般社会ではカノンの権威が小さくなる可能性はあるでしょう。
大学という特殊な共同体内では、カノンは大きな顔をしてしぶとく残存するでしょうが、やがて増殖への解決策としてカノンの精選が行われ、いくらかは削ぎ落とされるのかもしれません。

・翻訳は正確性&多様性が尊ばれる。

翻訳に関するほとんどの議論が、ここに着地するでしょう。
「まあ結局のところ、まずい翻訳や問題のある翻訳があっても、それも含めての面白さだよね」という見方は、スタンダードになりこそすれ、消えることはないのです。

・世界文学=新たなカノンを編み続けること説を提唱する。

優れた作品が今後も増え続けることは予測するまでもない事実です。
そこで、新たなカノンを、有力な作家や、個々の読者が編む、その行為の価値が、今後高まるのでは、と私は考えています。

日本だと、諏訪哲史『偏愛蔵書室』がきわめて優れたカノンリストだと思いますが、この本の特徴は、多くの書物が新品では手に入らなくなっていることです。
超絶レア本がいくつも挙がっていたりします。
すると、微かではあれ、新たな翻訳の需要が出てくる。
そのようにして、新たな本が出版される契機となるのかもしれません。

・信頼のおける要約の価値が上がる。

21世紀は、あらゆる企業が、個人の可処分時間の奪い合いを行う時代です。
簡単に言えば、読書に、特に名作と呼ばれる本に時間を割くことが難しくなるということです。
「ちょっと気になってるんだよね」程度では、意外と手が出ない。
潜在的な読者は、ついついサブスクメディアで映画やドラマを見ることで可処分時間を満たしてしまうことでしょう。

ゆえに、反動的に、名作の価値や権威を強化する工夫も生まれるでしょうし、私もそうする側に回る役。
で、そんな私みたいな草の根1匹狼や、アウトリーチの意識を持つ専門家が、
「各作品の一番大切な部分を要約して解説する」
ということの価値が、より重視されるかもしれません。

まさに、NHKのETV『100分de名著』(この番組名どうにかならないかな? ダサくて顔から火が出そうだからせめてdeを「で」に変えてくれ)のようなコンセプトが今後もっと求められるのでは、と考えることもできます。

6:最後に

「世界文学」の議論を見渡してつくづく思うのは、「文学」なる語によって包まれている文化のネットワークは、今後ようやく、地球規模で活性化しそうだな、ということです。

世界中で、優れた文学作品が書かれています。
そして日本には、驚くべき数の翻訳書が、日々出版されています。
最近では、現代韓国文学の傑作たちが続々日本語で読めるようになり、少しずつ社会の価値観を変えつつあります。

沼野は、モスクワでの国際文学翻訳者会議での経験から、
「世界文学とは翻訳のことだ」と実感した、と大きく振りかぶった一球を投げたりしています。
(「翻訳は世界文学の別名である」)
また、
「世界文学とは、多様性と普遍性、「多なるもの」と「一なるもの」の間の、永遠の往復運動ではないかと私は考えている。」と、そりゃそうだよね、と言わざるを得ない抽象論で綺麗に結論をつけたり。
(「いまどうして世界文学なのか?」)

今の「世界”の”文学」の状況を一言で言えば、
意外にも、世界のあらゆる地域で文学は新しくなり続けているのです。
ヨーロッパ中心主義&英語帝国主義が相対化されゆく世界で、新たな可能性・新たな議論がより活発になりそうな様子です。

「世界文学」の議論は、私たちが従来の考え方では予想できない形で、文学を用いた文化的ネットワークの地球規模での再構成を実現するかもしれません。

でも、です。
私のように、ただ文学を愛する一般人にとっては、評判のいい作品が読めるかどうか、あるいは、評判は聞かなくても、ある作品との予想もしなかった遭遇が自分を変えてくれるかどうか、が実際的な問題であって、時には、翻訳の要望を組織的に出版社に送るべき場合もあるのでしょう。

思えば、世界文学について真剣に語るのは、
この地上に確認できる全ての文学作品が吹き荒れる嵐の中に飛び込み、強風をレギュレート(整流)すること、
目も眩む濁流を水路づける(=カナライズ)することです。

冒険に例えるなら、最初からフル装備で挑むか、
ジャングルの中でも鉈一本あればあらゆる状況に対応できる、という強さが必要になります。

では、そんな冒険の強さを持たない、ジャングルの中を探索する時間などない凡人に、せめてできることはないでしょうか?
様々な噂話を集めて、地図を自前で作ることです。
それを、他人の地図と比べあって、新たな何かを発見することです。

時には、発見したその内容ではなく、地図を比べ合う、そのプロセスそのものが、かけがえのない成果となることもあるに違いありません。
それは、怒涛の情報世界を整流し、自分の外の世界でも、内の世界でも、水路づけることになるのです。

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